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東京奇文

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2005年 03月 31日

やりたい女と好きな女と。

女の子はみんなかわいい。

私はこれは、紛れもない真実であるとおもう。
私の旧友もそう言っていたし、おそらく、多くの男は、そうおもっているはずである。
彼女がいようがいまいが、そんなのは関係ない。
彼女もかわいいし、街を歩いている女の子も、電車の向かいの席の女の子も、サークルの後輩も、グラビアアイドルも、みんなかわいいのである。

ちょっと待て。これじゃあ、みんな一緒じゃないか。
みんなかわいくて、みんないい、なんて、金子みすヾかてめえわ、などと言いたくもなるであろう。

だが、かわいいものはかわいいのである。

では、街で見かけるかわいい女と、自分の好きな女との違いはなんなのだろうか。


まず、この場合の「かわいい」は、極めて表面的なものである。
なにせ、グラビアアイドルも同列に論じるのであるから、表面的なものであるのは明らかである。
少なくとも、「かわいい」という価値基準のみで考えた場合、彼女かそうでないかは、全く問題にならない。
そして、この場合の「かわいい」を、もっとわかりやすい言葉で言い換えれば、

「やりてえ、こおゆうおんなとやりてえ」

ということになる。
おそらく、まず、やりたい女とやりたくない女を分けて、やりたい女と判断したほうを、「かわいい」と表現しているのではないかとおもう。
だから、厳密に言うと、「女の子はみんなかわいい」というのは大嘘で、
「そもそも、かわいい女=やりたい女しか目に入らない」から、女の子はみんなかわいいという表現になるのである。

年をとるにつれ、やりたい女の(正確には、やってもいい女の)ストライクゾーンは、ものすごく広がる。
小学生中学生のときは、女子の男子からの人気というものは、一極集中型であったはずである。
元気で明るくて、男子のからかいに、照れて、ちょっとムキになって怒るような女の子が人気だったはずである。
要するに、顔がかわいいという要素もあるが、それよりも、自分に対して積極的に接してくれる子を好きになる傾向が強いのである。
だから、顔がかわいくて、性格も良くても、おっとりした子や口数が少ない子は、この時代、実はモテない。
というか、眼中に入ってない。

だが、十九、二十歳くらいになってくると、(私は例外だが)一般に、女の子と話すことも平気になってくる。
あまり積極的ではない子のなかにも、ものすごい上玉(古いなあ)がいることに気付き、そのような女の子も、自分の守備範囲に入っていることに気付く。
また、女の良さの多面性にも気付く。
顔や積極性以外にも、様々な面に良さを見出せるようになってきている。
想像力も豊かになっている。
そこで、良い、というのは、ぶっちゃけ、「やりてえ」ということなのである。
髪の毛がキレイというのも、「やりてえ」を誘発するし、なにげないため息が喘ぎ声のように聞こえただけでもうダメである。

こうして、ストライクゾーンは、広がっていき、「女はみんなかわいい」と言うようになる。


つまり、「かわいい」という価値基準は、所詮、極めて曖昧模糊とした基準なのである。
いわば、かなり目の粗いフルイのようなものである。
この段階では、まだ、好きな女とそれ以外は分かれていない。
やりたい女とやりたくない女を分けただけである。

では、やりたい女のなかで、好きな女とそれ以外を分けるものはなんだろう。

それは、たぶん一言では言えない。
これはもう、人それぞれである。
あえて一般的に表現するなら、
「いつまでも一緒にいれそうな感じ」
ではないだろうか。
私であれば、それは会話や笑いのセンスが同じかどうか、である。
川上弘美さんも、たぶん会って話したら、すごく楽しいとおもう。
そういう意味では、「いつまでも一緒にいれそうな感じ」の人ではあるが、そもそも、「やりたい女」のなかに入っていない。
だから、彼女候補にはなりえない。

これは想像になるのだが、セックスのときには、たくさん会話をしたほうが良いとおもうのは、そのためだ。
無言でセックスするだけであれば、好きな女でなくても良い(そういうセックスを求める男も多いであろうが)。
会話をすることで、はじめて、好きな女とセックスしていることに、積極的な意味が見出せるとおもうのだ。


まとめると、男にとってのセックスは、セックスに過ぎない。誰でもいい。
やりたい女をかわいいと表現しているだけである。
性欲の処理だというのも結構。行為自体は、極めて自己中心的である。
岸田秀の言葉を借りれば、それは女に対する侮辱行為ですらある。
私は、リチャード・ドーキンスの利己的遺伝子という考え方はどうも苦手なので、種の保存のための本能に突き動かされて、という解釈はとらない。

きもちよくなれるからやりてんだよ。

好きだからセックスしたいというのは、大嘘である。
好きなのはセックスのほうですから。
そうでも言わないと、女はやらせてくれないから、言うのである(私の場合、言ってもやらせてもらえてないけれど)。
全部嘘さ。そんなもんさ。夏の女は幻なのさ。

「好き」と「やりてえ」は、全く別物、両者の間にはなんの因果関係もありませんから!


だから、言葉を借りれば、オンリーワンかどうかは、「かわいい」という言葉からはまるで判断できない。
つまり、「女はみんなかわいい」という言葉は、「やりてえおんながいっぱいいるよお」と言っているのと同じことである。
「やりてえ」と「好き」は別物だから、それを気にすることはないのである。

これはね、もうしょうがない。
どうしても嫌なら、仏門に入れるか、ちんこ噛み千切るしかない。

男に性欲がなかったら、女の魅力なんてものは、大半が役立たずである。
男が男に対して魅力を感じることが極めて稀であるのと同様になる。
世間にいわゆる「いい女」の定義くらい、よくわかっているであろう。
もし私に性欲がなければ、わざわざ女に声などかけはしない。めんどくせえ。
男女が平等であるはずがない。
男女平等というのは、すなわち、性関係がないということである。
法の世界では可能であるが、現実には、それは、不可能であろう。
男の動物的な性欲に、もっと感謝してもいいくらいである。


そこで、会話なのである。と私は思う。
会話のセンスがある女は、魅力的である。
女の賢さは、セックスと対極のところで、男を惹きつける。
つまり、バカはダメである。
もちろん、ここにいう賢さというのは、高学歴ということではない。


男は、自分の性欲に嘘をつくことが、極めて苦手な生き物である。
だから、「女はみんなかわいい」と言ってしまう。
私も、彼女に何度か言っている(私の場合、「彼女」ではないので構わないのだが)。
しかしそれは、自分の好きな女と他の女を同列に置いているということでは決してない。
まして、比較などしちゃいない。
「やりたい女」はたくさんいるけど、「好きな女」は、たいてい1人(…か、ふた、り)である。

…しかし、やっぱり、「やりたい女」がたくさんいるってことが、許せないんだろうなあ…。

by prince_of_curry | 2005-03-31 01:28


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